今でもあの年の11月27日を忘れない。
新潟ポートリーの長年のお取引先の採卵農場から連絡があった。
暮れも押し迫ったその日、当時の社長K 常務Sが富山県にあるその本社T鶏卵の出向いた。
用件は翌年から廃鶏の羽数を半分にして半分は茨城の処理工場Tに回すという内容だった。
鳥インフルエンザのリスクを分散するという趣旨だったと思う。それは理にかなっていた。
しかしその羽数はうちの扱う年間羽数の約17%、これはわが社のとって死活問題でもあった。
その日の夜帰社した後遅くまで社長と常務はその対策を協議した。
一句 政治家の子弟が代々政治家になるこの国は多臓器不全 志ん笑